昭和44年03月17日 朝の御理解
御理解 第百節
「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」
金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えると。これは誰しも家繁盛子孫繁盛を願わぬものはありません。ですからその願いが切であればある程、その金光大神が教えて下さる繁盛の道と言うのを体得しなければなりません。繁盛の道これは子孫が沢山出来るとか、お金が沢山出来る、もちろんそうですけれども、人間の幸せということだと思います。人間の幸福の道を教えるのじゃということになりましょう。子孫繁盛家繁盛子孫繁盛の道を教えるということは、人間の真実の幸福を教えるのだと。
そのために教祖のお神様の生きられ方と言った様なものを、言うなら追及しいわば勉強しておられてですね、それを現代、現代の金光教では、、いわゆる金光大神ですね、いわゆる金光大神のまぁいわば生きられ方ですね、それをそのまま金光大神がおかげを受けられた事を、つぶさに書き残されたものを、それを集めたのがあの「金光大神」です。ですからその金光大神を研究致しますと、致しますほど限りがない程あろうと思いますけど、私は何と言うても、教典ね、金光教教典。
この全てが金光大神の教えて下さろうとしておる、人間真実の幸せ幸福になる道だと。ですからこの御教えの全てが、また金光大神の生きられ方の全てが、言うならこの御理解百節に絞られておるというても良い位です。問題はここんところのおかげを頂く。それにはどうしてもひとつ自分の家の子孫繁盛家繁盛を願わせて頂く、まぁ根本的なこのものはどこかと言うと、教えのま至る所にそういう事が説いてあります。いわゆる親にかかり子にかかりであり親の事は子が願い、子の事は親が願い願い合い致しと仰る。
あいよかけよで立ち行く氏子あっての神、神あっての氏子あいよかけよで立ち行くとこう。そこで氏子あっての神と仰せられますから、私共は神様あっての私達であると言う自覚、ですからその神様あっての私ですから、氏子ですからその神様がね助かって下さる神様が喜んで下さる、と言う信心が根本になるのでございます。ただ金光大神は子孫繁盛の道を教えなさる、家繁盛の道を教えなさるからというて、なら私の方大坪なら大坪の家がどんどん、繁盛する事だけを願ったからと言うて私は本当のおかげにならない。
それは信心は徹する事とさえ言われてますから、教祖の御教えの一言でも、本気でそれを行じるところからおかげの道が付いてきます。けれどもそのおかげの道がです、そのおかげがです、ただ私で言うなら私大坪の家が、言うならば合楽なら合楽教会だけが、繁盛すると言った様な事の、おかげだけであったとするなら、それは枝も栄える、葉も茂っておるけれどもね、これはいかにも枝も栄え、葉も茂っておるようであっても、危ないと私は思います。
私はもう30何年も前でしたでしょうか、新聞を配達しておる時分がありましたが、大城、金島、大堰、大城は一部でしたけれど、そん時にあの益永と言うところがありますね。あすにもう大きな楠の木が沢山あるところです。大変なおかげの時でしたが、もうそれこそもう本当に、何百年経ったじゃろうかと言った様な大きな楠木がですね、一本倒れちょるんです。それを村の人達から聞かせて頂いたんですけれどもね、そのこの楠木はねそのま直根ですね。
楠のもう真っ直ぐに生えらなければならない、その根の下に大きな石があったそうです。ですから根が横の方へば2ぁっかりあった訳ですね。ですからその大風に耐えられなかったんです。いわゆる枝も栄える葉も茂るという程に大きな繁盛をしておったんですよねその楠が、けれどもその直根が大きな石の為に災いされて、その直根が横の方にずぅっとあったです。浅かった訳です。ですからその楠だけが倒れていく。そんな事を今日私はふっと思わせて頂いたんですけれども。
私共いかに合楽の教会が、枝も栄える葉も茂るで繁盛して参りましても、それが本当の繁盛であぁこりゃ本当の繁盛であってもですね、それがなにか大風のために吹き飛ばされるような繁盛であってはならない事をです、今はまぁ繁盛今からしなければならないという時に当たって、よく分らして頂かにゃならない。障害になるものが根にありはしないか、下に大きな石があるような障害、直根が入らなければならないその直根がです、入れないような邪魔なものがありはしないか。
私はこの御理解百節を頂いてです、皆が家繁盛子孫繁盛を願わんものはないと。願うね、それでその繁盛のおかげを頂いておるから、安心て言う事はない。そういう繁盛のおかげを頂いた時に、間違いなくその根が繁盛に対する根が、入っておるかいないかということ。ここんところを私はあのう確かめて行かなければいけないと、そしてその根が入っていく事の為に、障害になるものがあるなら、今のうちに取り除いておかなければならないということ。
ですから今日は、その御理解百節のめでためでたという、まぁいわゆる繁盛になって来ておるから安心と言う事はない、果たしてその根が根腐れをしておる様な事はないか、その根がいわば直根である、いわゆる真っ直ぐ生えて行かなければならない、その根に思い違いがないかね。例えば真一文字にこう前進するというかね、いわゆるあの猪武者的な、我武者羅なですね、もう言うなら事神様の事においてはね、一歩でも退かんと言ういわゆるそういうひとつの不退転の心とでも申しましょうかね。
一にも神様二にも神様、三にも神様と言う熱情は持っておる。けども私はお道で言う信心のこの徹して行くと言う事は、そして前に向かって前進する事ですけれども、それは又言い換えますとですね、自分の過去に繋がるものまぁ言うならば親であり、先祖であり言うならばいわゆるいわゆる金光大神ね、言うならば御本部なんです。ここんところの念と言うか思いというか、そういうものが有り難いものに繋がる、有り難いものに募っていくと。「神は声もなし形も見えず、疑えば限りなし恐るべし疑いを去れよ」。
と御神訓にございますですね。神は声もなし形も見えず、疑えば限りがなし恐るべし疑いを去れよと、恐るべしである。神様には声もなからなければ形もないですから、自分達が只繁盛しておればですね、もうそれで家繁盛子孫繁盛のおかげを頂いておる事は事実だけども、それでよいと知れない、いわゆる目に見えないもの目に見えないところ、神は声もなし形も見えず疑えば限りない、又は誤魔化そうと思えばごまかせる。気付かなかったら目に見えないからいつまでも気付かない。
そういう間に50年100年200年と経って行く内にです、大きな嵐にあったら根からひっくり返ってしまう。恐るべしでしょうな。ですから私どもが今合楽はどうしても繁盛の一途を辿らなければならん。大きなおかげを頂かなければならん。但しその大きなおかげを頂くために、昨日のここ2、3日頂いておりますように、大きな信心をさせてもらう。大きな信心とはいよいよ様々なまぁ難儀なら難儀を、私の有り難いという心で消していく程しの、心を大きな心と言う又は大きな信心という。
その大きな信心にはもう絶対大きなおかげは付きものなのだけれども、繁盛して行く事は間違いはないのだけれども、けどもいつどこから大きな嵐がないとも限らない。そういう素晴らしい信心をさして貰うて、おかげを頂いておってもそれこそめでためでたと言う様なおかげを頂いておっても、神様ご自身もめでためでたというて下される程しのおかげを、神様自身が言うなら目に見えない所がね、また目にゃ見えても、いわゆる限りない例えば所がです、おかげになって行きよらんならそれだけでは危ない。
そりゃその楠木じゃないけれど、何百年というて繁盛していくかも知れませんよ。また繁盛しますよねその大きな信心すりゃ。大きな信心がいいと仰る。大きな信心とは全てそものが難儀な事があっても、その暑い事があっても寒い事があっても、いわば暑さ寒さを感じんで済む程しの、信心頂いていきゃ間違いなし繁盛、枝も栄える葉も茂る繁盛になるだろう。けれども今日私この御理解百節の中からです、そういう枝も栄える葉も茂るという繁盛のおかげをいわばびくともせん。いわば大盤石なものにする為にです。
ここに私共はねその根の大切さ直根の大事さ。そこのところをです本気で大事にしていけれる信心。御本部そして九州に道が伝わり、それが小倉になり福岡になり、久留米になり、善導寺三井教会になりそして合楽がある。この辺の所をです、私共は軽う見ておるような所はなかろうか。結局ここあって今日があるということ。そこんところがあって今の繁盛を見ているんだと。それをお道は手続きという。私は今ほど教団全体のいわば助かりを願わなきゃならん時はないと、言う様な事をまぁ感じますが。
それも教団全体じゃない。私共のいわば直根いうなら手続の所そこの所がです、私はやはり有難いものになって行かなければならんなと言う事です。そこん所が願われる信心、まぁいうならば大きな信心とはそう言う様な事もある。なんとはなしに合楽の場合なんか、このまま行きゃ枝も栄える葉も茂るような繁盛になるなと、そういうものを感ずる。いうならまぁこちらだけは目出た目出たと言う様な事になって来そうにある。けれども果たして根の方はどうかと。ここん所はいわば関係がないちいゃ関係がない。
人ん事どんじゃないといや、人ん事どんだんじゃない。けどもそこんところにひとつの、何て言うですかね憧念心とでも言おうかね、先祖に対する憧れの念とども言うかね、そう言う様な念が合楽の信心から少し薄くなって行きよるような感じがする。目の前の繁盛にいわばあのうのまぁ幻惑されて、根の方に疎かになって行きよる様な感じがする。これはどういうことでしょうかね、とにかく金光大神、金光大神あって神が世に出たと神様が仰るが、私共としては金光大神あって合楽がある。
その念と言うものが薄うなって来る。これはいわゆる目にも見えない、いわば声もなし疑えば限りなし。言うなら目に見えておりましても、それを声に出していうものがない。声を出して言うても目に見えない。そういうそのあのうデリケートなものですね。直根と言うのは。それを私どもの信心の何て言うでしょうか、それに例えば見えたりすると、又は聞こえたりするとあれをそれに抵抗しようとする。それは場合によってはそれはレジスタンスとなって来る。
そういうところから憧念の心と言うのは薄うなって来る。昨日の行徳先生の話の中にも、甘木の初代と安武先生ですね、とあの一の弟子でありますところの先生と言われますところの、日田の教会ね、堀尾先生のお話があっとりましたですね。私共は金光大神を知らない。私の金光大神、それは師匠安武松太郎先生、あなたあなたなのですあなたが私の金光大神なのです、と言われ又そうと思うてま大事にしておいでられたという意味のお話があっとりましたね。
これが直根の一番手前のね、繁盛に繋がる一番根のところです。ここのところのです捻というものが段々薄うなっていきながら、自分が気が付かんままに薄うなっていって、そしてそれが繁盛に繋がっておっても、その繁盛は危ない。その繁盛その繁盛が、その根であるところの親であり先祖であり、又は金光大神である。又は親教会であり手続きであると言う様なね、そこがあってここがあって現在の私の繁盛があるという、その一念というものがね、れは誤魔化しゃ誤魔化せるけれど。
そこが誤魔化しなしにいよいよそうであると実感でけれる有り難さというものと同時に、大きな信心ですねそれ2、3日前に頂いております大きな信心とが、相まって行かなければならない。そこに私は本当の意味での金光大神の教えて下さる事は、家繁盛子孫繁盛の道に繋がるのだ、限りなく家繁盛子孫繁盛のおかげに繋がるのだ。その様な事をです例えばあいよかけよだとか、親の事は子が願い子の事は親が願い、ここに本当に親の助かりがなからなければ子供の助かりはない。
子供の助かりがなからなければ親の助かりもまたない。そういうお道のおかげの一つの建前とでも申しましょうかねが、はっきり樹立されるね打ち立てられての、そこを踏まえての信心そこを踏まえての繁盛でなからなければ、枝も栄える葉も茂るというおかげでなからなければならない。又そういう道をですね金光大神の御生きられ方の中に、又はこの教典の全ての中に教えておられるんだと言う風に思います。いわば秒的な繁盛と言うとちよっとおかしいけれど、根はたした事はない見えないから分らない。
虫が付きよっても直根が入って行きよらなくても分らないけれども、繁盛さえしとれば繁盛のとこだけ見て繁盛しよるから間違いないと、言った様な考え方はです危険である。なんでもない時は何でもない様であっても、ひとたび大嵐が吹きますとそれはもろく潰れたり倒れたりしなければなりません。今日は御理解百節をですね目出た目出たの若松様よ、枝も栄える葉も茂るというではないか、金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのだと教典のその全てが、その目出度いおかげの頂けれる道を教えて下さってあるんだ。
金光大神はその繁盛の道を教えて下さってあるんだから、その道を踏まなければならないと言う事をです、ただ家繁盛子孫繁盛のところだけに絞っておったんではですね、いわば目に見えないところね、そこんところを疎かにし結局恐るべし恐るべしとね、疑いを去れよ恐るべし疑いを去れよと仰る。恐るべしと言う所になって来るのです。ですから今日のこの御理解百節は、あの家繁盛子孫繁盛の姿ではなくて、その家繁盛子孫繁盛のその姿がです、間違いなく根の方にも響いておるか、また根の方を検討しておるか。
どこにそのたとえば根の方が本当ではないというかね、根の方に対するところの憧念の心、憧れの念と言う様なものがどこから欠けて来たのか、と言う様な事をです検討させて頂きながらの、家繁盛子孫繁盛でなからなきゃならん。今日はその御理解百節を特にね、子孫繁盛の元であるところの、根の方へ目をけたと言った様な意味合いのところを聞いて頂きましたです。どうぞ。
本当に家繁盛子孫繁盛のおかげを頂かにゃなりませんから。しかもそれが本当に子々孫々に至るまで繁盛していくおかげを頂く為に、いよいよ根の方に対するその関心と言うかまたは憧れの念と言うか、先祖とでもいうかそのところを見極めて、目に見えるところの繁盛のおかげに、繋がったものでなからにゃならんと言う事を申しましたですね。 どうぞ。